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今日は久しぶりに青空が広がりました。
朝はこの天気に誘われ、街まで骨董市に行ってきました。
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散歩に出ると、ひまわりも元気に咲いています。
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でも心配が・・・・・・
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そう、パワフルなハリケーン グスタフがニューオーリンズに近づいています。
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朝の散歩の時に見つけました、置き去りにされたヘルメット。
しばらくここにあるようです。
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*コミカレとはコミュニティカレッジを私が勝手に短縮して造った造語です。

このコミュニティカレッジの留学は私の初めての海外留学と言うわけではありませんでした。
正確に言うと、このコミカレ留学は2度目になります。この留学の丁度1年前に語学留学として
ニューオーリンズにある有名私立のチューレイン大学のESLに3ヶ月ほど籍を置いていたのでした。この時の経験でニューオーリンズと言う街が気に入ったのと、何か手に職が付くことをアメリカの大学で勉強したいと言う欲求がだんだん高まってきて、留学を考えるようになりました。
ニューオーリンズの友人を通して、ニューオーリンズにはデルガド・コミュニティ・カレッジという短期大学があると聞き、早速資料を取り寄せると芸術関係の学科が豊富にあるではありませんか。
子供の頃から漫画が好きで、漫画家にあこがれたほど人だったので、芸術関係の勉強をしたいと思いました。すでに30歳になっていたので、日本に帰ってきてすぐ職につけるような事を学びたいと思いました。目に付いたのはインテリアデザインというものでした。正直言ってはっきりインテリアデザインなるものがどんことをする職業なのか知りもせず、響きがいい職業だし、工務店かどこかで帰国したらすぐにも仕事が見つかるようだなと思いこれを専攻する事決めました。

当時のデルガドは誰でも希望者は受け入れるといった体制で、私は気に入りました。しかも面倒なTOFELのスコアを提出しないと言うのがなんと言っても気に入りました。普通留学する時は1年前くらいからしっかり準備をして留学手続きをすることを、留学書などには書いてありましたが、こんな簡単に手続きできるので、私は留学前3,4ヶ月で全て準備をやってしましました。

一応日本の大学を卒業しているので、一般教養とかは履修したくありませんでした。すぐに専門科目の履修から始めたいと思い、問い合わせをすると日本の大学を出ているなら履修しなくても良いと言う返事が返って来ました。

さて、学生ビザももらい、私の留学準備はほとんど完了。全て滞りなく終わりました。
ただひとつの事を除いては・・・・・・。

私の留学はスプリングセメスターからでした。これは1月から始まる学期です。
私は正月が終わるや、そそくさと渡米しなければなりませんでした。
正月に帰省して家族のものと穏やかな正月を過ごし、あと2日で渡米と言う日になりました。
その夜和やかな会話のあとで私は意を決して、両親に告げました。
「実は、明後日からアメリカに留学してきます。」と。

そうなんです。この日この時まで両親には留学の「りの字」も言ってはいなかったのです。
年も年だったので「何を寝ぼけた事を言っているっだ、もう30になると言うのに」とか言われて反対されるという思いから、この時まで親には秘密でした。
明後日からアメリカに行くと聞き両親もあっけに取られ、なんとも言えず承諾するしかありませんでした。
今から思うとこんなことするのは大胆だったなぁと思います。

ま、なんとも親不孝な、有無を言わせぬ事後承諾をさせて、馬鹿息子は30歳にしてアメリカ留学に旅立つのでした。

(つづく)
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3年半もほとんど毎日更新でやっていると、だんだん書くネタに困ってきます。
そこでここいらでまたシリーズ物をやっていこうと思います。
今回は、私の留学時代の回想記なるものを書いてみようかと思います。
まあ、私が留学したのは24年ほど前で時代も変わり、留学してみようと言う人には
あまり参考になる留学記ですが、読み物として楽しめるように書いて行こうと思っています。

ブログ友人のさむさんが65歳にしてキャンパスライフをはじめると言うので、
読み比べるとアメリカの学生生活の今と昔がわかるでしょうか?

私が留学先として選んだのはコミュニティカレッジと言われる短期大学です。
この手の大学は授業料が格段に安く、入学も簡単でした。場所によっては授業料が
無料というところもあったようです。ただ外国人が受講するには、余計な
お金がかかりますが、それでもふつうの4年生大学に入学するよりは全然安くなっています。
あまりお金のない人は、最初の2年をコミュニティカレッジで過ごしお金の節約をすると言う人が
アメリカには割と多くいます。

アメリカの大学に外国人が入学する場合、普通TOFELの点数を提出しなければなりません。
そして大学によっては、その点数が何点以上とか規定があったりします。
幸い私の選んだコミュニティカレッジはTOFELの点数を要求してませんでした。
ほとんど誰でも高校を卒業していれば入学が出来るという学校でした。
私は特に学歴が欲しかったわけではなかったので、簡単に入学できるこの学校が
気に入り、入学を決めました。

私が30歳の時の事でした。
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今日も曇りかと思っていたら、久しぶりにそこかしこに青空が。
そしてくもを通して日も光も漏れてきました。

でも長続きはしなくて、曇り空に戻りました。
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今日のタイトルを見て、スペイン語の話題かと思ったでしょう。
残念でした。
まったくスペイン語とは関係ない話題です。
 
アメリカが開始した旅行者に関する新しい規則の話題です。
ちょっと前に何かでこの話題読んだことがあッたのですが忘れていて、先日lanovaさんに指摘されて思い出しました。

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ESTAと呼ばれる新しい規則が渡米する旅行者全員に課せられるのです。
読めばわかると思いますが、来年1月より渡米する人はインターネットを通して住所、氏名などをアメリカに知らせなくてはいけないのです。テロ対策もついにここまで来たかと言う感じですね。そんなに難しいことではないけれど、面倒な感じですね。もしこの手続きを忘れると入国が遅れたり、下手をすると入国拒否なんて人も現われそう。

しかし、指紋、顔写真、そしてついには渡米事前報告までが義務化されて、この先何が要求されるかと不安になります。なるべくアメリカには来ないで欲しいと言っているようにも思えてしまいますね。
ま、でもこの手続きは一度すると2年間は有効だと言うので、毎回ではないようです。

私もこんな手続きをしなくてはいけないのかと思いましたが、よく読むとビザなし渡航者に課せられる義務なので、ビザを持っている私には関係ないようです。
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今日は一日中雨でした。
ふつうなら残暑で参っている頃なのに、雨続きの日々で
肌寒い9月の下旬のような天気です。
もちろん私はこんな日々は大歓迎!
おかげで仕事がはかどる事。こう涼しいと創作意欲も湧いてきます。
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おととい東京に行った時、ちょっと時間があったので上野の西洋美術館で開催中の
「コロー展」を丁度いい機会だと思い、鑑賞してきました。

「何々展」と言ってもその作家の作品が少なく、同時代の作家の作品ばっかりという展覧会が多い中、この展覧会はコローの作品が充分あり、満足のいく展覧会でした。また珍しいガラス版画といわれる版画も数点あり興味深かったです。

しかし、日本の展覧会は人が多すぎて、ゆっくり自分のペースで見られないというのが人気のなる作家の展覧会の欠点です。それほど混んではいないかと思って入ったら、やはり鑑賞者の多い事。こんなに絵の好きな人が多いなら、私の展覧会に来て欲しいです。
もうひとつ気になるのは、会場の照明の暗さです。確かに作品への影響を考えれば、照明は暗めの方がいいのでしょうが、日本の美術館の照明の暗さは世界一では。もうちょっと光が欲しい。

それまでフランスでは風景画と言うものはランクが下と見られていたのですが、1824年、パリのサロンでイギリスの風景画家コンスタブルの展覧会が開かれ、それが若い世代の画家たちに大きな影響を与えたと言う事です。
コローもその一人と言えます。

以下美術史で習ったコローの生涯を短くまとめてみました。短すぎる?

コロー(J.B.Camille Corot)は1796年パリの裕福な家庭に生まれました。学生時代のコローは優秀な生徒だったようです。卒業後、彼は画家になることを希望しましたが、父親の希望で商人になるための修業をすることになります。しかし、彼の商人としての才能はなく、画家へ志望はつよくなっていったようです。コローは絵の勉強のために夜学に通い始めます。

コローにとって幸いだったのは彼が26歳の頃、商人としての才能が無いとあきらめた父親が
年に1,500ルーブルのお金を生活費として与えた事です。これにより、生活のために働く必要がなくなり、画家としての独立した生活を手に入れました。

1825年父親からの祝福と経済的なサポートを得てコローはイタリアへの旅に出ます。イタリアには有名な絵画が豊富にありますが、コローはそれらにたいした印象をうけなかったようです。
2年間イタリアにいながら、ミケランジェロの作品があるシスティーナ寺院へ一度も足を運ばなかったと言うことです。しかしローマの古い建築物のある街の風景には感動をおぼえたようで、
2年間で150ほどの小さな街の風景画を描いています。

パリに戻ってからは、春、夏はスケッチ旅行、秋、冬はアトリエで制作といったパターンがコローの制作習慣のようなものになっていきました。

50を過ぎても父親からの生活費で暮らしていたコローでしたが、やがて彼の作品はコレクターなどから求められるようになっていきます。1847年に父親、1851年に母親を亡くし、55歳にして孤児となったコローはいくつかの親切な家族により淋しさは紛らわされたようです。それらの家族の家に滞在しながらコローは一年を通して風景画のスケッチのために旅を続けていました。

1875年短い闘病生活のあと79歳でコローは他界しました。


参考文献
An Outline of 19th Century European Paintings
From David through Cezanne
Volume I: Text

By Lorenz Eitner

Icon Edition
Harper & Row Publishers, NY 1986
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さて、昨日お知らせした撮影会を行ってきました。
子供ずれのお客さんで盛況となりました。ではその一部をご覧ください。

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