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d0000995_2231555.jpgユーロスターを降りて、A のアパートに行くために地下鉄に乗るために切符を買おうとしたら、すでにAが数枚の切符を買っていて、これを使うようにと私に渡した。私はA切符代を払おうとするとパリに滞在中は私の招待だ、金は心配するなと言われる。結局私はパリでは一銭も自分のお金を払いませんでした。

昼時だったのでAのアパートに行く前にAの行きつけのレストランに行きました。女性がシェフをしている小さなレストランでした。ボリュームがありましたが、かなりおなかが空いていたのでほとんど平らげましたが、さすがにデザートまでは全部食べられませんでした。

アパートは4階でしたがエレベーターがついていない古い建物でした。しかし階段は緩やかで上りやすく、それほどは大変ではありませんでした。工夫されて作られていたのですね。写真はアパートの窓です。お土産に私のリトグラフをあげると喜んでいました。実はすでに一枚AはNYのギャラリーで買って持っていました。朝早く起きたのと3時間の列車の乗車で疲れていたので3時間ほどここで休みました。

冬の事で日が早く沈むのであたりは薄暗くなり始めていました。しばらく近所を歩き回ってから、知っている日本レストランがあると言うので、そこへ行きました。かなり混んでいましたが、ほどなく二人分の席が取れ、案内されました。何を食べたかは覚えていませんが、注文して出された物は純日本食ではありませんでした。A は従業員を良く知っているらしく親しげに話し掛けていました。

さてその後地下鉄でまずルーブル美術館のあると事へ行って見ました。もちろんもう既に閉まっていましたが、夜のルーブルも普段は見られないので良かったですね。
その後エッフェル塔が良く見える高台へ向かい遠くにイルミネーションに照らされた夜のエッフェル塔はまた格別の美しさでしばらくそこにたたずんでいました。
また明日、明るい時に連れてきてあげると言い、その日はそれでパリ観光は終わりました。
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ユーロスターの駅はウォータールー駅にあり、 J のフラットからはそう遠くはありませんでした。外国へ行く列車の駅と言うことで、ユーロスターの駅の周りはちょっと空港のような雰囲気もありました。Eメールを送れる端末機などもいくつかありました。
改札口に行くにはエスカレーターで下へ降りなければなりません。ウォータールー駅自体が階段を上っていくので、ユーロスターは実は1階だったのかもしれませんね。

8時23分のユーロスターに乗る予定だったので、8時に A と駅で待ち合わせしました。ちょっと早く着きましたが、もう A は駅にいました。一緒にエスカレーターで1階に下り、改札を通り抜けます。空港のように金属探知機を通ったように思います。
出発まで時間があったので、構内のカフェでモーニングコーヒーを飲んで時間をつぶしました。
席は指定席だったように覚えています。が空いていたので問題はないだろうと隣同士の席に腰を下ろしました。ゆったりとして乗りごこちのいいシートでした。やがてユーロスターはスムーズに走り出しました。アナウンスが英語行われ、次にフランス語でされました。さすが2国間を走る列車だと思いました。これがフランス側に入るとフランス語が先に流され、次に英語になりました。
窓からの景色もイギリスを走っている間は霧が深くあまり景色が見えませんでしたが、トンネルを抜けてフランス側に入ると晴れ渡った青空でのんびりとした田園風景が見られました。
時刻表によると8時23分に出発して12時23分にパリに着くと言うので4時間かかるのかと思いましたが、1時間の時差があるので3時間でロンドンからパリに到着したと言うことになります。
イギリスからフランスに着たので、イミグレーションか何かが駅にあるのかと思っていたら、何もなく普通に駅を出ることが出来ました。なんとなく拍子抜けした感じでした。
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受け付け終了しました。ありがとうございました。

朗報!
審査の上、受け付ける場合があります。希望者はコメント欄を非公開にしてメールアドレスをお知らせください。
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d0000995_1631196.jpgフランスでのホストをしてくれた俳優さんですが、なんと偶然にも今日のテレビ東京の「午後のロードショー」の映画が彼の出演作品でした。

アントニオ・バンデラス主演の2001年のアメリカ映画で「抹殺者」という日本題名でした。原題は ”The Body” といい、考古学者がキリストの死体とおぼしき遺骨を発見してから展開するミステリーで A は神父役で出演しています。
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d0000995_22284976.jpgA との約束は昼だったので、朝はゆっくり過ごしました。少し一人で朝の散歩などにも出かけて 鼻につき始めた J との距離をおくようにしていました。

さて、A に会うために出かけようとすると、な、な、なんと J もついてくると言うのです。何の用があってついてくるのか? どんな人なのか見てみたいという好奇心からでした。特に断る理由も見つからず、しかし邪魔だと思いました。
場所はトラファルガー広場に面するナショナルギャラリーでした。2年くらい会っていなかったのですぐわかるかと思っていたのですが、ナショナルギャラリーまで行くと待っている A にすぐ気付き、向こうも私を認知しました。私がそばにいた J を紹介すると迷惑そうな顔一つすることなく丁寧に挨拶しました。図々しい J は早速たどたどしい英語であれこれ質問をし始めました。 とにかくナショナルギャラリーを見学しようと私は促し、中にはいっていきました。
このギャラリーのコレクションのすばらしさには驚きました。しかも入場料が無料と言うのが信じられませんでした。日本だったら相当な入場料を取られそうな作品で壁面が埋められていました。こんなに凄い美術館だとは知りませんでした。これはまた一人でじっくり見たいと思いました。
J や A の事も考えてさっと一回りして、昼食を一緒にとろうと言うことになりました。ナショナル・ギャラリーの近くを歩いてレストランを探し、そこでちょっと遅い昼食をいただきました。私はあまり個人的なことを聞くのは失礼だと思っていて、実はこのときまで A が何をしている人か知らなかったのです。フランスとイギリスを行ったり来たりしているので貿易か何かの商売と勝手に想像していました。 無遠慮な J は好奇心から「あなたは何をしている人ですか?」と私も聞きたかった質問をしてくれました。すると J は俳優をやっていると淡々と答えました。俳優と言っても大きな役をやるような人ではないようです。しかし、今まででた映画の題名を聞くと「インディアナ・ジョーンズ」「007」「屋根の上のバイオリン弾き」などと言う、そうそうたるタイトルがあげられました。全く驚きでした。また2001年に小沢征爾に依頼され日本で何か仕事をしたといって、その時のパンフレットを見せてもらいました。話の話題は A の仕事についてしばらく続きました。私はこの時パンフレットに書いてあった A の名前を覚えました。それは私に知らせていた名前ではありませんでした。芸名を使っているのだと知りました。興味があったので帰国後インターネット・ムービー・データベースで検索してみました。かなりの数の作品に出ていました。イギリス、フランスのTVドラマは元よりアメリカのTVドラマにも出ていました。

昼食が終わると J がではここで失礼すると言ってやっとの事私を A と二人にしてくれました。私は A と近くを歩き回り時間を過ごしました。そして次の日にユーロ・スターで一緒にフランスへ行くための打ち合わせをして、別れました。
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d0000995_21333657.jpgさて、横道にそれてしまいましたが、また訪問記の方へ戻ります。
ボランティアの翌日、この頃になると私も J の親切はわかるのですが、色々自分で行きたいところもあり、J の案内したがる気持ちはわかりますが、自由行動をしたくなりました。この5日目の朝それを言い出そうとしたら、J に先を越され「今日はアーティチョークへ行ってからサマセットハウスへ連れて行ってあげる」と言われてしまいました。たまたまアーティチョークは「プリントメイキング・トゥデイ」に載っていて、見学したいと思っていた版画工房だったのでこの日の予定は文句無しでした。

そこはある建物の3階か4階にありました。中は工場のようで、銅版のためのプレス機やリトグラフのプレス機がほとんどのスペースを占領していました。わずかなスペースで学生や版画のアトリエをもてないない人がここを使っていました。年配の人もいて引退後に趣味で版画をやっているようでした。このワークショップは2人の版画家によって設立された工房だと言うことでした。
その一人と秘書のような人がいたので、この工房にシステムやイギリスの版画事情などを尋ねました。屋根裏部屋のようなスペースがあり、そこがギャラリーになっていてここで制作された作品や有名な人の作品などが置いてありました。当時私は友人と版画工房を作ろうとしていたのでいろいろ参考になりました。

このあとサマセット・ハウス(Somerset House)に行ったと私の日記には書いてあるのですが、全くそれがどんな場所だったのか記憶にありません。ネットで調べてみたのですが、それでもそんなところへ行ったような記憶がありません。本当に行ったのでしょうか? J に引きつられるだけだったので、自分で行ってないので相当の印象がないと覚えていないのかもしれません。

夜、A に電話を入れる。A はフランス人の知人であさってからフランスへ行く予定なので連絡をしておこうと思ったのです。なんと幸いにも A は今ロンドンにいるとの事。(イギリス、ロンドンに連絡場所があった)それなら明日会おうということになった。そして、あさって一緒にフランスへ行くことに決めました。

ちょっと J がべったりとついてまわるロンドン滞在にはうんざりぎみだったのでAとの再会とフランス旅行が気分転換によかったと思いました。
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Jの二の腕。 このブログがばれたらこの腕で撲られるかも。




絶望的になる J でしたが、そのビザ拒否の下には次なる文がありました。

「この決定に不服の場合は移民法によりこの担当官の判断に対して控訴することができる。
控訴する場合は●日までに以下の住所に添付された書類を提出の事。」

J はこの文章に一縷の望みを託し、添付書類を提出しました。幸いに控訴は認められ J は控訴のために必要な書類を必死で集めました。友人に泣き落としで、推薦の手紙を依頼したりしました。またイギリスの医者にイギリスの治療を受けなけれがいけない事情があると書かせたのです。と思っているのはJの誤りで、私が見せてもらったものは、医師として虚偽の事は証明できないので、J が何月何日に予約をしてあるという程度のものでした。こう言ったいくつかの書類をファイルして送付しました。

しかし、またしても拒否されました。
理由はイギリスとの個人的深い関係が証明されていないということでした。引退者の場合は親族や仕事でイギリスとの関係が必要なのですがそれが証明されていないというのです。学生で滞在していただけでは深い関係があるとは考えられないのです。
しかしこの手紙にもこの判断について不服があれば控訴できるという事で、控訴しました。

しかし、2度あることは3度目ある。またしてもダメでした。そして最後にもう一度控訴できるというところまで行きました。今までと違う弁護士を使って最後は前の失敗を反省して慎重に行いましたが、やはりあっさり拒否されて、その記録によると弁護士は深く説明もせず拒否されると簡単に引き下がったようでした。 J のイギリス行きは永遠に絶たれてしまった感がありました。

ついに望みを絶たれた J は法の目を抜けるような方法で渡英する決心をしました。今もっているパスポートはビザを拒否されたことを示すスタンプが押してあります。つまり新しいパスポートを取って行けばよいのではないかと。J はパスポートを紛失したということにして、新しいパスポートを取得しました。この時警察に紛失届を出しその証明書をもらわなければなりません。J は虚偽の紛失届を出してまんまと新しいパスポートを手に入れたのです。(これは正直犯罪ですよね)

イギリスのイミグレーションでビザが拒否されていることがばれないかと、ひやひやしましたが上手く通り抜けられました。こうして1年後に観光で入国した J はさらに語学留学に変更し滞在できる期間を延長しました。私がイギリスに行ったのはこの語学留学の時期でした。

ここでボランティアの事が関係してくるのです。close connection to UK が必要だった J はイギリスとの関係を持つためにボランティアをしていたのです。しかも教会関係の人が証明する手紙を書いてくれたら信頼性が増すと思ったのです。これが功を征したのかどうか知りませんが、この1年後に J は引退者用ビザの申請をしてビザをまんまと手に入れたのでした。
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← J の手の一部です。


訪問記からはちょっと話がそれてしまうのですが、後で起こる事の伏線として J の事を少し詳しく説明した方が良いのかと思いました。またボランティアの本当の理由もあかしておこうと思います。ちょっと長くなりますが書いておこうと思います。なお、プライバシーの関係で一部設定の変更がしてあります。・・・でも当人が読んだら判りそうだな~。

J は会社で募った早期退職者希望者に応えて定年より早く会社を退職しました。そのため普通よりは多い退職金をもらったようです。また相続で大金がはいり、そして独り者だったので、かなりの貯金があり、ほとんど退職後は金に困らない裕福な環境にありました。
そんな J はなんと語学留学をすることを決めました。熟年で一人海外へ行くという精神には私も感心したものです。知人の娘がロンドンに留学しているということで、ロンドンに留学場所を決めました。いたくロンドンが気に入り、移住して余生を過ごしたいとまで思うようになりました。

何年か学生として滞在していましたが、そろそろ学生ではいられなくなりました。ビザが切れる頃パリに行き戻ってきて半年延ばし、色々作を練りました。そしてイギリスには引退者用のビザがあることを突き止めました。早速 J は通訳と弁護士を雇い引退者のビザ取得の準備を始めました。ここで J の思い込んだら止められない性格が出てしまいました。
この引退者用のビザの申請は申請者の本国で行うものなのです。つまり J は日本に帰国してイギリス大使館に書類を申請しなくてはならないのです。弁護士もその辺のところをしっかり説明したのに、聞く耳持たない J は日本に帰りたくないので、何とかイギリスで申請してくれと頼み込んだのです。執拗な J の依頼に無理とは知っていながら弁護士は J を満足させるために申請を提出してしまいました。当然の事ながら書類は拒否されて戻って来ました。その時点でまだ3,4ヶ月滞在できるビザがあったのでその間に再申請をしようと思っていました。さてどんな策略でと考えあぐねていた時 J はあるとき日本人の知り合いに相談してみました。するとその人が言うには、ビザを拒否されるとその拒否の日付から20日以内にイギリスを出国しなくてはならないというのです。慌てた J は調べてみると後3日でその20日目になるのでした。これは大変不法滞在になってしまうと、慌てて帰国の飛行機を手配し、新たな申請書や必要書類をを弁護士からもらい、(日本から申請すれば必ず通ると太鼓判を押された)とにかく急いで日本に帰ってきました。

帰国するとすぐに J は意気揚揚と申請書を持って英国大使館に面接に出かけました。長く滞在したわりには流暢でない英語で面接を受けました。ここで、 J は大失敗をしでかしてしまいました。まずは質問が良く理解できなくて事実とは違う答えを言ったりして、だんだん答えが辻褄が合わなくなってきたのです。ビザ審査官は J の態度や答えに疑問を持ち、何かを隠すために質問の答えを避けているような印象を受けてしまったようです。
そして質問が進むほど、ますます誤解を招くような受け答えをしていきました。
こうして審査官は引退者用のビザを拒否するしかありませんでした
イギリスの弁護士が太鼓判を押してくれたのに、ビザを拒否された J は困惑しました。
審査官はビザが拒否されたので、観光でも学生としてももう2度とイギリスにはいけないだろうと言ったそうです。イギリスの弁護士が太鼓判を押してくれたのに、ビザを拒否された J は困惑しました。しかも、もう再びイギリスの地を踏めないなんて・・・。
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3日目は日曜日。朝はちょっとゆっくりしてから、 J が 近くのマーケットへ案内すると言う。なんと言うマーケットだったのか、はっきりは覚えていないがあるものは韓国や中国製の新しい安物の衣類などが中心だったような気がする。特にこういったものは興味ないので、とにかく歩き回って一応見学するだけにする。

その後テートモダンまで行く。 J によるといつも日曜の朝はここの会員専門のラウンジでコーヒーを飲みながら新聞を読んで時間を過ごすと言う。そこは大きなガラス戸で景色が良いところだった。すぐそばにテムズ川が流れていて、絶景と言う感じだった。これは確かに優雅な気分になれる場所である。J は毎日曜日この景色を見て過ごすのか思うとうらやましい気がした。

ゆったりとした優雅な時間を過ごした後、近くに昨日と今日の日程でオープンスタジオを開いていると言う版画家がいるというので、そこに立ち寄ってみた。建物の2階で狭い階段を上るとプレス機やインク台などでごちゃごちゃしている場所に版画作品が所狭しと並べてある工房があった。幾人かすでに先客もいて説明をしている中年の女の人がいた。それがこの工房の主らしかった。彼女が話している間作品を見てまわり、話が途切れたところで彼女に話し掛け色々質問などをした。親切丁寧に答えてくれました。希望者には作品を売っているようだったが、ちょっと高かったのでパスしました。

歩き回りつかれたので、J のフラットに戻り2時間ほど休みました。
さてこれからが今日の J のメインイベント。 実は J はボランティア活動をしているのでした。最初聞いたとき えっ!と思いました。 なんか J とボランティアは結びつかないひどくかけ離れたものだと感じてました。どんなボランティアかというと、近くの教会でホームレスに食事を配膳すると言うものでした。1週間おきに異なったボランティア団体が食事を作ってきて、 J はその手伝いとしてホームレスの間に入って食事を配ることをしていました。 え、偉いじゃないか、J。私は認めたくなかったが J に感心しました。

J は私まで連れてボランティアに行こうといいました。私は観光に来たので、ボランティアにロンドンに来たのではないので気が進みませんでしたが、断れずに J について行きました。その日は在英のインド人のグループが食事を作る当番で、メインは当然カレーでした。 
4時半頃になるとホームレスの人たちが教会の前に並んで食事をもらうのを待っていました。薄汚れた服を着て、風呂にも長く入っていない人たちで、彼らがテーブルに着くと異様な臭いが部屋中に立ち込めました。とても耐えがたい異様な臭いで私は息がまともに出来ませんでした。
半分酔っ払ったような人もいて、喧嘩を始めたり、カレーの匂いに気付くと「俺はカレーは嫌いだ。別の食事が欲しい」と文句を言い出すものもいました。教会の人が何とかいさめ、簡単な話しを済ますと、配膳が始まりました。J は私にも配膳を手伝えと促しました。じょ、冗談だろう。とてもあの臭いの中にはいってはいけないと、厨房近くの部屋で見ていた私は思いました。観光旅行に来たのに、こんな思いをするなんてなんと言うこと。
結局、渋々あまり呼吸をしないようにしてさっと配膳しては厨房に戻ってきました。彼らのしゃべる英語は私には全く理解不可能。なんだか判らないが何か不満を言ってくるものがいました。よく J はこんな環境に耐えられるものだと思いました。
やがて食事が終わり、食事を下げる時期になりました。カレーは嫌いだといった男はほとんど手をつけず、俺はまだ食事をしていない。何か別のものをくれと騒いでいました。まったくありがたみを知らないやつらだと思いました。彼らは働こうと思えは働ける身体なのに働かず、こうした慈悲を受けて暮らしているのに不満を述べる人たちで私は同情は出来ませんでした。

カレーは大分余ったので、J は貰い受け今晩の夕食にするといいました。2日分はもらい、これで2日の食事が浮いたと喜んでいました。それが目的か!と思わすず言いたくなりました。
しかし実はもっと深い理由があったのでした。
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d0000995_2183751.jpg3日目は土曜。よく晴れた日でした。今日は私をノッティグ・ヒルのポート・ベローマーケットへ連れて行くという。なんだかよくわからないが、ノッティグ・ヒルという言葉とマーケットと言う言葉に惹かれる。ジュリア・ローバーツとヒュー・グラントのヒット映画の舞台が確かノッティング・ヒルだった。
バスに乗りついた場所から、少し歩いていくとマーケットが開けてきた。これと言って買いたい物ががあるわけではないが、いろいろ見てまわるだけでも楽しいものだった。わりと多くの人でにぎわっていました。

J は以前住んでいたアパートがこの近くにあるので見せたいといい、入り組んだ道を進んでいった。しかしどうも大分前の事で、道に迷ってしまった。あちこちうろついていたら偶然にも目当ても場所にたどり着いた。そんなことでどんなアパートだったか、連れて行ってもらったが記憶に残っていない。 J はここに住んでいる時に泥棒に入られて、引っ越すことを決めたらしい。

時間があったので、ケンジントン・ガーデンへ行って見る。広い公園で池を挟んでハイドパークとなっている場所である。公園の中を進んでいくと小さなギャラリーがあった。丁度そこで日本人のアーティストの作品が展示してありました。
さてそろそろ帰ろうとバス停に向かう。ところがバスが全然来ない。このときになって J はロンドンは週末はスケジュールが平日と異なりバスの本数が少なくなるなんて事を言い出した。しかし待っても待ってもやってくるのは方向の違うバスばかり。寒いし、日は暮れかかってくるし、J もつれてくるなら土曜のバスのスケジュールくらい調べて欲しかった。1時間以上待ったと思います。やっとバスが来て乗り込んだはいいが、あまり進まないうちにこのバスはここまで、最終目的地へはバスを乗り換えていってくださいと言われる。乗ったと思ったら降ろされて、また待つ羽目に。幸い前ほどは待つことなくバスに乗れたものの、外はもう真っ暗になってしまいました。

さて J は私をただで宿泊させて、ロンドン案内もしてくれるなど親切な人だと思うでしょう。それに反し私は感謝するどころか不満があるような書きッぷり。
この訪問記は単にロンドンの訪問記を書く予定でしたが、やはり J という人物の事を読者に知ってもらったほうがいいと思い、J についてもう少し詳しく書こうと思います。ただプライバシーの問題もあるので設定とか少し J については変更してありますが、ほとんど実際に起こった事実を私の視点で書いています。

追記: J の事 1
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