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ミッドターム クリティーク

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入学して2カ月たったころ、初めてのミッドターム クリティークがありました。
大学院生のクリティークは、学部の生徒のクリティークが終わったころ
午後4時過ぎから木曜と金曜に行われました。7名の学院生が2日にわかれて
クリティークが行われます。自分がどちらの日の何時ころになるかは1週間前までに廊下の掲示板に張り出され、どこで作品の批評をされたいか、教室を学院生の方から指定します。
学院生はおたがいに話し合い、どの教室をクリティークに使うかを決めます。
そして、指定した日にその教室に中間までに作成した作品を展示して、教授や学院生の座る椅子などを用意し、クリティークを受ける準備をしておきます。
クリティークは芸術学部の教授など全講師陣が参加し、学院生全員の参加が基本でした。
学院生はそういった人々の前で自己紹介をし、作品の制作工程や制作意図などを説明し、そのあと講師陣や、学院生からの質疑応答が行われます。

この全体のクリティークの前に、スポンサーである専任講師に数回指導、意見などを仰ぎますが、他の教授の意見もきけるいい機会ではあります。
先輩の学院生たちは教授たちとも慣れ親しんでいて、和やかな雰囲気でクリティークは行われ、それほど大したことはないと思いました。
そして2日目の私の順番が来ました。
作品は教授たちにも他の学院生にも好評で、ほめ言葉だけで終わりました。ほっと安心した私でしたが、一方であまり関心がないのでほめ殺しにして、私の作品のクリティークはさっさと終りにして、次に進もうとしているのかと疑心暗鬼もありました。なぜなら他の生徒はもうちょっといろいろな意見も出て、アドバイスなども教授や学院生から出ていたからです。うれしいような、物足りないような気持でミッドターム クリティークは終わりました。
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私たちが入学した時には7名の先輩学院生がUNOには在学していました。
このうち3名がパートタイムの学生で、4名がフルタイムの2年先輩の大学院生でした。
パートタイムの学生はクリティークの時にだけ顔を出し、それ以外ではあまり学内であうことはありませんでした。
普通大学院の修士課程は2年と言うのが普通ですが、MFAの実技の美術科は3年制でした。2年制のMAという課程もほかの大学にありましたが、その頃からMFAはだいたい3年制でした。他の大学でMAをとった学生が、MFAをとるために大学院に入りなおすと言う事もありました。美術課程ではMFAが最終学歴でドクターに近い課程だとも言われていました。
パートタイムの学生は3年修了が難しく、だいたい4,5年かかっています。パートタイムの2名は我々の入った学期が最後の学期で卒業制作に励んでいました。フルタイムの1名はサマースクールを利用して、単位を早く取って卒業を早めたいと思っている人で、彼もこの学期卒業を予定していました。

履修するコースは Major Studio と Minor Studio それに Art History、
Seminor そして Thesis Research というコースがありました。Major Studio コースでは専攻のものを中間、期末のクリティークまでに制作すると言うかなり自由な課程で楽と言えば楽、大変と言えば大変と言うコースでした。私にとっては給料をもらいながら好きなことを出来ると言う事で、最高に幸せな気持ちでした。美術史のコースは読書とか大変そうなので、最初の学期はわざと避けたように思います。
他の美術大学では卒業展をすればよいだけなのですが、UNOは卒論が必須課目になっていてこれが大変だと思いましたが、それは先のこととあまり考えずに、楽しい大学院生活を始めました。
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1989年の秋から私のニューオーリンズ大学大学院での留学生活が始まりました。
その年の秋学期には私を含め5名のMFA(Master Of Fine Arts)候補生が大学院の芸術学部に入学しました。私を除く4名は、すべて若い女子でした。彼女たちを紹介すると、絵画専攻のスーザンとスザンヌ、写真専攻のテレサとローズでした。版画専攻は私ひとりでした。この時はテレサを除きほとんどが南部の州からの出身でした。UNOには彫刻科もあるのですが、専任の教授の健康状態悪かったこともあり、彫刻科の新入生はいませんでした。少数の新入生、そして在学生が少なかったために我々新入生としてよかったのは、新入生全員がアシスタントシップを受けることができたことでした。アシスタントシップとは学部の雑務や初級クラスの受け持ち、教授の手伝いをすることにより、授業料が無料となり、さらにいくらかの給料が支払わられるという奨学金のような制度です。つまり私たち新入生は全員が授業料は無料で、給料をもらいながら勉強できるという、夢のような状況が待っていたのです。私に与えられたアシスタントシップの仕事は版画教室の管理と言うもので、今日教室の整備、備品の管理など大した仕事ではなく、こんな事で授業料がタダでお小遣いが貰えていいのだろうかと思うような待遇でした。

入学すると学院生はスポンサーと呼ばれる専任の教授をひとりひとりにあてがわれます。これはのちに自分で気の合う教授に変更することもできます。そして副専攻のスポンサーは自分で決められたと思います。
UNOの芸術学部は小規模で、大学院は絵画科にはトム、リチャード、ジム、ドイル、シェリルと5人、版画科はハワード、彫刻科はジョージそして写真科のトーマス、そして美術史の教授としてペギー、キャロリン、マーシャの3人がいました。そう、学内ではここの習わしか教授でもファーストネームで呼んでいました。私は最初教授をファーストネームで呼ぶのは気が引けました。
当然版画専攻の私はハワードという版画の教授のもとで学ぶことになりました。副専攻は私は個人的にも知っていたリチャードを望んでいたのですが、ジムという教授のもとで学ぶこととなりました。
大学院生にはそれぞれ、ちいさな自分の部屋がアトリエとして与えられます。私も版画教室内にある小さな自分専用の部屋をもらい、それから3年間この部屋で多くの時間を過ごすことになりました。
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ニューオーリンズ大学には「大学院芸術学部」の学生になる1年ほど前から大学院生としては在学していましたが(non-degree studentとして)、コミュニティカレッジで商業美術を学びましたが、美術学部で正式に美術を学んだことがなく、それを補うために美術史や基本となる学科などを勉強していました。
その年の春学期のはじめに大学院生コーディネーターの教授に、そろそろ大学院に願書をだしても大丈夫かと尋ねたところ、あまりいい返事はもらえず、出すのは自由だが受け入れられるかは保証しないとかなり否定的な意見を言われました。さらに今の君に力ではたぶん無理だろうと言われ、意気消沈しました。この時なかば大学院進学はあきらめ帰国も視野にいれ、とにかく最後の学期になるだろうから、精一杯勉強をしようと思いました。このコーディネーターの教授はたまたま、その時に履修していた版画コースの先生でした。私はすでにリトグラフをやっていて、とにかく最後なのでいろいろなリトグラフの技法をやってみようと思いました。2、3のリトグラフを作ったあと、やはり私には写実的な作品が向いているし、自分でもやっていて楽しいと気付きました。特に家の中をテーマにした作品に興味がわき、そういった一連の作品を制作し始めました。まわりの生徒も私の作品を見てはいい作品だとほめ言葉を述べました。ある時は版画の専任教授である人がたまたま教室に現れ、私の作品に非常に興味を示しました。指導していた教授にも好評でした。特に学期の中間クリティークでは、かなりいい批評をいただき創作意欲に火がついたと言う感じで、さらにそのテーマで作品作りを続けていました。
そして、期末のクリティークが近づいたころでした。指導していた教授にちょっと話があると、版画教室の外に呼びだされました。
私は何だろうと訝っていると、
「君の作品は目覚ましい進歩をした。今の君ならわが大学院でも採用したいと思う。
願書を出したまえ。会議にかけなければならないが、私が受け入れられるように支援するから大丈夫だ。」
ほとんど諦めていたので、まさに夢に様な展開に天に昇るような気分でした。さらに教授は「夏に君と幾人かの生徒の作品を大学のギャラリーに展示したいと思う。作品を借りたいがいいか。」といわれました。大学のギャラリーで展示までしてくれるとは本当に気に入ってくれたのだと喜びはさらに増してゆきました。
この展示会ではなんと、教授の一人が作品を購入してくれました。
幸先の良い大学院生活が始まろうとしていました。
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終わりは始まりのためにある


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予定外のCompositionI を夏学期に履修する事になりましたが、実は私個人としてはそう嫌でもなかったのです。まだ日本には帰りたくなかったので、アメリカに滞在できて密かに喜んでました。しかも、卒業後の方向性も出来て夏学期は楽しく過ごせました。

この、コミカレ最後の学期には英語の他にドローイング2という科目も取りました。この時のこのコースの講師は私と同じ年くらいの女の講師で、私は最初この講師になじめず、楽しくなかったのですが、後半からはいろいろ話をしてお互いに理解しあえて楽しいクラスになりました。後日談ですが、私がニューオーリンズのギャラリーに所属が決まったあとで、この講師もそのギャラリーのアーティストだとわかりました。

夏学期はほどんど毎日授業があり、2ヶ月ほどで終了します。何とか無事に英語のコースもパスして、私はやっと約1年半ほどのコミカレ留学を終えました。夏は卒業式がないので、私は12月の秋学期の卒業式まで待たねばなりませんでした。
その間にニューオーリンズ大学大学院への進学準備を進めることにしました。
こうしてひとつの留学が終わり、新しい留学生活へと移って行く事なるのでした。

(おわり)
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運命の学生展



毎年春の学期末には美術とコマーシャルアート専攻の生徒たちによる学生展が
コミカレのギャラリーで行われます。その学期に履修していた学科の自信作などを数点
選んで、この展覧会に参加できます。
私は美術とコマーシャルアートの両方とも履修していたので、2回に分けて参加できました。
美術系の方は審査員がいて賞が与えられました。賞といっても何等とかのリボンが飾られる
程度のものでした。私の出したインクのドローイングが何かの賞に選ばれました。全然期待していなかったので、クラスメートにそれを知らされて、担がれていると思いました。ギャラリーに行って、私の作品にリボンがついているのを見て、初めて実感が湧き嬉しくなりました。

それからしばらくして、今度はコマーシャルアートの作品展が開かれました。私にとっては
こちらの方が専攻だったので、オープニングにも出ました。予想外に多くの人が訪れ、
オープニングは盛況でした。この日はナイトクラスもあり、授業の合間に展覧会を見に来る
人もいました。私の出したエアブラシの作品は注目を集めていました。自分の作品の前に
立っていると、肥満気味の中年の女性が寄ってきて話しかけてきました。
「これはあなたの作品ですか。素晴らしいですね。」
まあ、嬉しいですがほとんどの人が言う定番の言葉でした。お世辞も入っているので
軽く受け流しました。その女性はいろいろ私のことを質問してきました。
私は自分が日本から来た学生で、日本の大学を出てしばらく働いて、何かそれまでと違った事をしたいと思いアートを勉強にアメリカへ来たということを手短に話しました。
するとその女性は名刺を出して、
「私はニューオーリンズ大学で国際学生課のディレクターです。これだけの才能があるなら
うちの大学に来て見ませんか?ぜひ来て欲しいですね。日本で大学を出ているなら
大学院の芸術学部に応募してみませんか」
私は大学院にいけるほどの者ではないと思っていたので、驚きましたが、大学院という言葉に惹かれました。

それからは、大学院と言う言葉に魅惑され、そしてまだ日本には帰りたくなかったので、だんだん気持ちがコミカレ卒業後は大学院と言う選択肢に傾いていきました。
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ペインティングゥ~~!



卒業するはずだった最後の学期に、私は純粋美術系のペインティングIというクラスをとりました。絵画には興味がありましたが、何か面倒なクラスというイメージがあって履修しませんでした。しかし、これでこの学校とも最後だし、履修してみようと決意しました。

デルガドでは空調の設備が完備していないので、油絵の具は使えませんでした。アクリル絵の具を使いました。アクリル絵の具と言うのを使うのは初めてのことでした。この絵の具は乾燥が早いと言われていたので、初めの頃はチューブから出すと直ぐにも乾く絵の具かと思い、筆が絵の具で固まってしまうのではないかとひやひやしながら使ってました。

クラスでまずやったことはカラーウィールを絵の具を使って作ったり、原色に白や黒の色を少しづつ足していって色の変化していく段階をチャートにするといったものでものすごくつまらない事でこれが何になるのかと思ってました。講師もこれが何のためになるのかと言う説明をせず、こういうものを作りなさいという指示しかしませんでした。
後にこういったことが色彩や絵の具を混ぜ合わせて色を作ったりする時の役に立つ事だと知りました。後の話ですが、私はこのチャートをデルガドに置いてきました。数年後私がギャラリーに所属して個展を開くようになった頃、この時の講師がオープニングに来て、
「あなたがペインティングのクラスで作ったチャートを今も生徒に良い見本として使っているわ。
そして、あなたが有名な画家になっているといっています。」
というような事を言ってくれて、嬉しく思いました。

このクラスではこのチャートつくりのほか、2つの作品を制作しました。まず初めに講師がいくつかの静物を机の上におき、これらを好きな風にアレンジして好きなように描くと言う課題が出ました。この時どんな作品を描いたかはっきり覚えていません。なぜかというと、後にこの作品は欲しいという人がいて売れてしまったのです。

そしてもう一つは抽象画の練習でした。雑誌などの写真を小さく切り取ってそれを拡大して描くという課題でした。この課題も楽しく、私はアクリルで絵を描く事の喜びを知りました。それとそれまでは大きさが限られている絵やイラストなどを描いていたのですが、キャンバスに描くということで今まででは考えられなかった大きさの絵を描ける楽しさと喜びをこのクラスで知りました。
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卒業申請(後編)



こうなったら、学長にでも何でも抗議に行ってやる
卒業できないと知った私はなんとしても卒業しようと必死でした。幾人かの友人たち一緒に卒業したかったので。
その当時デルガドの学長は汚職問題でニュースで騒がれていました。確か身内のものに職を与えたり、法外な給与を身内に支払っていたりとさんざんのレポートがされていたものでした。それなら私の卒業を見逃してくれるのではないだろうか。なにせ単位不足は私のせいではなく、アドバイザーの不適格なアドバイスから生じた問題だと思ったからでした。
1年半在学して初めて訪れるアドミニストレーションの建物はクラスのある建物からは離れて建っていました。受付で学長に話があると告げると、学長は出張で今週は大学に戻ってこないと言うような事を言われました。副学長ならいると言うので、その人に会いたいといいました。
副学長は一応私の話を聞いてくれましたが、Composition 101 と 102 は基礎的な学科でこれはどうしても取らなければいけない単位だと言いました。残念だけれどこの単位なしには卒業はさせられないときっぱりと言われました。そこでComposition 102 は代替科目としてビジネスイングリッシュが取れるようになっていることを思い出し、私は日本の大学でビジネスイングリッシュのI とII というものを履修している。そのクラスではビジネス関係の手紙の書き方を習ったと言う事を言いました。だからComposition 102 の単位の方は何とか免除されるべきではないかと言い張りました。それなら、免除になるかもしれないが、一応レジストラーオフィスで調べてから連絡しようと言いました。

数日してレジストラーオフィスから連絡があり、尋ねると
「調べた結果、日本のビジネスイングリッシュの単位を102の代わりに認めるとボスが決断しました。残念ながらComposition101は履修しなければなりません」
これで私の春の卒業は断念しなければなりませんでした。しかし日本のビジネスイングリッシュの単位が認められたのは嬉しかった。日本の大学で履修しておいて良かったとつくづく思いました。もしこの単位が認められなければ、最低あと2学期在学しなければいけなかったからです。Composition 102 と言うのは 101 を履修してから出ないと取れない科目なので同時には履修できない科目なのでした。
私はこうなったら夏に日本に帰らず、サマースクールを利用してComposition101の単位をとることにしました。

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卒業申請 (前編)



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ま、いろいろなことがありましたが、あっという間の2年間が過ぎようとしていました。
最後の学期が始まった頃、卒業のために卒業申請をしなくてはいけないと言われました。
え、卒業って自己申告なのかと思いました。日本の場合特に卒業するからといって学校に
その申請をするようなことはしなかったと思いアメリカは面倒だなと言う印象を受けました。
とにかく今までにとった単位を示して、今学期で卒業に必要な単位が終了するので今学期で
卒業しますと言うようなことを申請しました。

卒業するのは嬉しい事でしたが、もう、日本に帰らなくてはならないと言うのは残念な気がしました。出来ればもう何年かアメリカに居たいと言う気持ちがありました。そんな複雑な気持ちのまま最後の学期を過ごしていると、ある日コミカレから手紙が届きました。なんだろうと思って手紙を開いてみると、

「あなたは単位不足で卒業できません」

と言う文字が目に入ってきたではありませんか。一瞬何のことがわかりませんでした。もう一度読み返しましたが、間違いなく私の卒業申請を拒否する手紙でした。単位の計算を間違えたのだろかと不安になり、調べてみましたが十分な単位をとっているはずでした。これは事務所の間違いだと確信した私はレジストラーオフィスに押しかけました。私の説明を聞きオフィスの人はでは調べてくるからちょっと待っていてくださいと私を残し奥のほうへ消えていきました。
しばらくして戻ってきたオフィスの人は言いました。
「今調べてきたのですが、あなたはComposition 101 と 102 を履修していませんね。この2科目は必須科目でこれは必ず履修しなければいけない科目です。」

ええ~っ。それは話が違うとわたしは思いました。私は日本の大学でとった単位を利用していくつかの科目の免責を受けていたのですが、その時単位についてのアドバイザーにしっかり聞いたのでした。そのアドバイザーは
「日本で英語を履修したならいいでしょう。あなたはComposition 101 102 は履修しなくて結構です。」とはっきり言われたのです。実は日本の英語のクラスとアメリカでは違うので受け入れてもらえないと思っていたので、嬉しかったのですが一抹の不安があったのです。その不安がまさに卒業する時に現実になるとは、私は悪夢を見ている気がしました。

私はその優しい顔をしたアドバイザーをよく記憶していました。急いで彼の部屋に向かい、事情を説明しました。するとアドバイザーは当然ながら2年前に1,2度あった私のことは覚えていませんでした。私はあなたが言いといったからComposition 101 と 102 を履修しなかったのだと詰め寄りました。彼は冷静にちょっと待ってくれと言い、コンピューターを操作し何かをみていました。そして言いました。
「規則でその2科目はとらなければ卒業は出来ませんね。日本の英語はアメリカの英語とはレベルが違います。残念ですが私にはどうすることも出来ません。卒業したければ来学期残って履修するしかありません。」
お前が言ったからとらなかったんだぞっ!と大声で叫びたかった私ですが、そこは抑えて
私はいいました。「そこを何とかしてもらえないでしょうか。あなたのアドバイスで私は履修しなかったのですから。」
すると、アドバイザーは「どうなるかわかりませんが、学長に直談判をして見るしかありませんね。私の力ではどうすることも出来ません。」と言い放ちました。

つづく
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Mathematics

どうも記憶がはっきりしないのですが、どうしてそうなったのかその理由を思い出せないのだけど、1年半した頃私は必須科目だから数学をとらなくてはいけないと言われました。
それでとったのですが、私の記憶ではレメディアルコースのようなクラスだったことを記憶しています。
どんな事をするのだろうかと思っていたら、最初の授業はこれは小学校のクラスかと思うようなことをするでした。数学でなく算数のクラスでした。なんと簡単な足し算、引き算からやり始めるのでした。さすがに一桁の計算はありませんでしたが、驚くほど簡単な計算をやらされるのです。いくら算数、数学が苦手と言う私もこんなクラスは容易でした。
それを察ししたのか、中間試験が終わった頃、私がクラスに行くと、講師は私を呼んで
「君はもう、このクラスには来なくていいよ。」と言いました。
私はあっけにとられました。冗談を言っているのかと思い、確認したら本当にもうこのクラスに来なくてもいいというのでした。私は履修した以上一応期末までいなければいけないものと思っていました。
このクラスは朝の8時からのクラスだったので、早起きせずによくなり気が楽になりました。
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