カテゴリ:・随筆( 21 )

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病院の中に入っていくと、まだ受付時間前なのにすでに長い列ができていました。さすが人の多い東京だと思いました。しかし、その列は一般的な病気で病院に来た人の列で、ビザのための検診は受付が別でした。こんなところにこんな用事で初めて来たので仕方ないですね。
2階に上がり言われた部屋に行くと当然まだ受付時間前なので誰もいませんでした。一般の受付と渡航者の検診はやはり全然人数が違います。私が一番でした。
検診は次のように行われました。
身長、体重。血圧。それが住むと地下に降りてそこでX線やら尿検査やら血液検査を受け、再び2階に上がると初めて医者と対面し聴診器を胸に当てられて、、、、、、。え、たったの30秒だけ?
最後に医師に簡単な質問をされて、終わり。結果はマニラのカナダ大使館に送ります。と言われ、お金を払って検診は終わりました。
特に問題はなかったのですが、私は高血圧の薬と糖尿の薬を飲んでいてそれを伝えたので、もしかしたらそれが問題となって健康診断で永住権は落とされるのではないかと不安で仕方ありませんでした。そして私はただマニラからの連絡を待ち焦がれていました。そしてその連絡が届いたのは年も押し詰まった、なんと12月30日でした。
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永住権のための健康診断を受ける日がやってきました。興奮と不安であまり深く永い眠りが出来ぬままに、午前4時半ごろ目が覚めました。11月の半ばで薄暗い時間帯でした。素早く身支度を整え、簡単に朝食をとり、上京の折には何時も行く埼玉の小さな駅まで車を走らせました。車は駅から5,6分のスーパーの駐車場に置かせてもらい、駅へと向かいました。驚いたのは駅の窓口は閉まっていて、切符の券売機だけが作動していました。さすがに田舎だと始発の電車の時には駅員はまだ来ていないのかと驚きました。私のほかに3人ほどの人がこの駅から乗車しました。
赤羽駅で、埼京線に乗り換え、さらに池袋で山手線に乗り換えました。まだ時間的に早いので池袋でもラシュにはなっていませんでした。そして池袋から新宿方面に1駅の目白へと向かいました。目白駅は思い出の深い駅でした。大学卒業後この駅の近くにあった英会話学校に1年半ほど私は通っていたのです。あの頃から何年経ったでしょう。目白駅に立つのは三十数年年ぶりでした。駅も変わり面影はほとんど無いような気がしました。駅を出て右に行けば学習院大学がありました。これから私が向かう聖母病院は目白通りを左に進みます。バスも走っていましたが、それほど遠くないし病院の受付の始まる8時までは十分な時間があったので、私はゆっくりと目白通りを下落合の方向に歩いて行きました。

地図で見たときはちょっと歩きでがあるような距離に思えましたが、実際に歩いてみるとそれほどの距離には感じられませんでした。下落合から中落合になる境の細い道を左手に曲がりさらに進んでゆくと右手に聖母病院がありました。病院の前に立ちましたが一見どこが病院の入り口なのかわかりませんでした、私が歩いてきた細い道から坂になっている道を登っていけば入口のような感じもしましたが、救急患者用と書いてある気がしました。私はその坂ではなく右を大きくぐるりと病院の建物を回りました。そちらこそが病院の正面のような気がしたからです。でもそれは間違いで病院の裏でした。私はもう一度道のように出て、坂を上り入口のようなところを目指しました。そこに着くとそこが正面玄関のようでした。遠くからはとてもそんな風には見えませんでした。まだ8時まで時間はありましたが、私は思い切ってはいっていきました。
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秋は深まり10月下旬となりました。
私は毎日何回か Eメールを確認しているのですが、ふと変な宛名のメールに気づきました。私はまた迷惑メールが受信箱に紛れてきたか思い、削除してしまうところでした。宛名も手紙のタイトルも英語でした。宛名はメールアドレスみたいで、よく見るとMANILAと言う英語に気がつきました。ウィルスのあるメールかと不安になりながらも、もしかしたら、マニラのカナダ大使館?と思い、そのメールを開いてみると、本当のマニラのカナダ大使館からのメールでした。そのメールには、手紙に書いてある日付から30日以内に指定の病院で、しかも指定された医師による健康診断を受けなさいと言うものでした。
以前誰かが、健康診断の受診の連絡が来ると言うのはほとんど移住が許可されたようなものだという事をきいたことがあり、このメールをもらい私は喜びました。
日本でのいくつかの病院とその病院の医師の名前が書いてありました。私にとって一番近いのは東京にある病院でした。東京の指定病院は2つ名前が書いてありました。
まず、一つは港区にある病院、もう一つは新宿区にある病院でした。新宿区の方は昔私が通っていた英会話学校があった目白駅に近いところで懐かしいと思いその病院にしようと思いました。メールでもらった病院の名前はインターナショナルカトリック病院(International Catholic Hospital)と言う名前でしたが、
病院で予約を取るためにネットでその病院を調べると、日本名は「聖母病院」と言う名前だという事がわかりました。最初はまだ30日あるからあとでもいいかと思いました。でもとにかくその病院のHPを見てみようかとそのページを見ると、渡航のための健康診断の受け付けは月曜と金曜の午前8時から午前9時までで、診察が行われるのは午前中というようなことが書いてありました。午前8時までに病院に着くには、始発に乗って東京に出なければならないなぁと思いました。本当は後回しにしたかったのですが、毎日だと思ったのに月曜と金曜だけだとわかると、そう、時間的に余裕のある状況でもないなと思い、早めに健康診断を受けることにしました。
私は健康診断には少々不安がありました。私は高血圧で地元の医師から血圧を下げる薬を医者から処方してもらっていたのですが、ちょうど1と月前に血液検査の結果、血糖値が高く糖尿病だと言われ、さらにコレステロール値が高く、中性脂肪の薬もその時飲んでいたのです。3種類も薬を飲んでいるという事が健康状態に不安材料があり、これがマイナスに働かなければいいけれどと不安がありました。医療費のかかる病人は移住者としてカナダには必要ないと言われ、移住を拒否される理由となるような気がしていたからです。
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そしてその年の7月に入った頃だったでしょうか、ふとカナダ大使館からの手紙を思い出し読み返してみると、このままこの手紙を無視するのは癪に障る気がしました。かなりのビジネスクラスの自営業での申請だったので、かなり高い申請料を払ったのだからそれだけの仕事をカナダ大使館にさせないと損だと思うようになりました。移住したいというより、お金の分だけの仕事を大使館にさせてやろうと思い立ち、面倒な書類のアップデートを作成し足り、集め始めました。かなり制作に厄介な書類もありましたが、とにかく9月初めの締め切りに間に合うように進めていきました。再び県警へ行き無犯罪証明書を取り、指紋も採取してFBIからも無犯罪証明書をもらう用意もしました。最終学歴の卒業証書のオリジナルか認証されたコピーをという事で、公証役場と言うところにも行き、認証してもらい、税務署に行き英文の納税証書をいただきすべて銀行から残高証明、市役所からそして戸籍抄本等をもらい自分で作成した2,3の書類もそろい、FBIからの無犯罪証明の連絡を待っていました。

1と月くらいで届くとネットには会ったのですが、8月末になってもFBIからの無犯罪証明書は届きません。私は仕方がないので今回もFBIからの証明書を除き、他のすべての書類をマニラに送りました。 まさに締切ぎりぎりでした。無犯罪証明がFBIからなかなか届かないので、FBIのインターネットのサイトを調べてみると、それまで無犯罪証明書は「28日以内に送ります」と書いてあったのが、なんと「12週間から14週間はプロセスにかかるりさらに郵送で幾日かかかります」変わっていました。私は少なくとも10月までにはFBIから証明書が届くだろうと思ってました。この頃になると私もこれまでやったのだから、できたら移住したいと言う気持ちに変わり始めていて、早くFBIから手紙がとどかないかと毎日のように郵便受けを確認していましたが、届く気配は微塵もありませんでした。
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サンフランシスコでは一軒家に一人で自由に暮らし、楽しい日々があっという間に過ぎていきました。もうほとんどカナダ移住の事は、そして移住の申請をしていたことさえ忘れかけていました。申請してからすでに7年が経とうとしていたからです。私の周りで環境は大きく変わっていたのです。

私は日本の生活に慣れていき、ほとんどカナダ移住の申請を忘れかけていました。そして2014年の5月に、マニラの大使館から1通の手紙が舞い込みました。その内容はこれから移住申請のプロセスを進めるために、以前提出した書類の最新のものを提出してくださいと言うものでした。文面には最新にすべき24の書類がリストアップされていました。そして手紙の最後には、この手紙の日付から120日以内に書類の提出がなければ、あなたの申請はキャンセルされますと書いてありました。

  日本に定住する気持ちでいた私は「なんで申請から7年後の今頃こんな手紙をよこすのか」と腹立たしい怒りの気持ちがありました。もう、カナダに移住するという意思も理由も私にはありませんでした。新たな書類をそろえるにはそれなりの労力がいります。それに例え最新の書類を提出してもまた書類審査にすくなくとも2,3年待たされるかもしれないと思うと、さらに年をとり、とても新たに書類を提出する気にはなれませんでした。私には手紙が来た嬉しさでなく、なぜ今頃こんな手紙をよこすのかと言う腹立たちさがありました。120日余裕があるし、その気になったら書類を出そうと思い部屋の隅に手紙を押しやりました。そして私には、楽器の練習とカルチャー教室での講義の日々追われてその書類の事は忘れていきました。
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2012年の暮れにニューオーリンズで世話になっていた友人が、亡くなり私はニューオーリンズの拠点を失いました。

もうニューオーリンズには戻るところが無いという現実はありましたが、何とか戻ってきたいとも思っていました。戻る機会を作るという事で2年後に個展の予定をギャラリーに約束してきました。
2013年は日本での生活のベースを作っていこうという気構えで進んでいきました。たまに海外に出られる機会があればいいと思っていました。そのためこの年の暮れから翌年まで、ニューオーリンズのギャラリーオーナーの親戚がサンフランシスコの家が3,4か月留守になるので、留守の家に滞在してもよいという話を言われていて、西海岸にも住んでみたいと思い12月から翌年の3月初めまで滞在する約束も取り付けてありました。この時に友人に預けたあった荷物などかなり処分、または持ち帰得る予定でした。私の気持ちは少し未練があるものの、益々日本で生きていくことへの気持ちが増幅していました。カルチャー教室も2つのクラスで教え始めましたし、やってみたかった公民館の尺八のサークルにも籍を置きました。私の日本での毎日は楽器の練習とカルチャー教室で埋められ、充実していました。
やがて暮れになり、私はカルチャー教室から3か月の休暇を取り、これが最後になるであろう長期の海外滞在のためにサンフランシスコに向かいました。
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サンフランシスコでは一軒家に一人で自由に暮らし、楽しい日々があっという間に過ぎていきました。もうほとんどカナダ移住の事は、そして移住の申請をしていたことさえ忘れかけていました。申請してからすでに7年が経とうとしていたからです。私の周りで環境は大きく変わっていたのです。
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2011年の9月半ばにポートランド(ビーバートン)から、まずは日本へ戻りました。
そしてその年の12月にニューオーリンズへと戻ったのです。その前にアパート探しをクレイグリストで
探しましたが、なかなか手頃なアパートが見つからずどうしようかと思いました。
幸い、ニューオーリンズについて次の日に手ごろなアパートを見つけることが出来、安心しました。
友人からベットを譲り受け、幸いテーブルはニューオーリンズに置いてあったので、使うことが出来ました。幸いだったのは欲しいと思ったものが次々と手に入ったのでした。ほとんど拾い物でお金はかかっていませんでした。
                  当時拾ったものの一部です。↓
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ここでの新しい生活、そして何の連絡もカナダからは無くて、ほとんどカナダ移住はあきらめていました。
そして私は移住の申請を取り下げようかとも真剣に考えたりしました。連絡が届く前に取り下げれば申請料が戻ると言われていたので考えました。私のようにビジネスカテゴリーの申請は他の申請より金額が2倍から3倍くらい高いのです。当時はそんな事は知りませんでしたが。とにかく申請取り下げも視野に入れ始めていた時期でした。
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結局、友人の決断でビーバートンから1年もたたないうちに再び引っ越すことになりました。
ここからならカナダへの引っ越しが楽だと思っていましたが、カナダからの連絡も全然ありませんでした。
3分の2ほどはカナダの移住は無いだろうと思い始めていました。いくらなんでもこんなに長く
待たせるとは何かが間違っていると思い始めてました。そろそろ申請書を取り下げようかと言う思いも
頭をもたげてきていました。

ニューオーリンズからビーバートンに引っ越しをしたとき、都合で全部の荷物を持って来れずに
友人の家にかなり多くのものや車を置いてきました。最初の予定では、夏にとりに戻り、引っ越しを完了させる予定でしたが、結局ニューオーリンズに戻ることになり、ある意味ニューオーリンズからの引っ越しを完了していなくてよかったと思いました。
私の都合で9月半ばに一旦日本に戻り、12月にニューオーリンズに戻ることにしました。
気に入ったこの場所でしたが、いい経験ができたと思い再び古巣のニューオーリンズへ戻ることになりました。
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* このエッセーは一人の日本人が海外移住を夢見て、海外移住申請をしてみたらどうなったかという経験・体験談です。移住申請をしてからその結果が出るまでをつづったものです。海外移住申請の手続きは常時変わるので、移住申請のアドバイスと言う意図はなく、ある一人の体験談としてお楽しみください。

実際に私が落ち着いた場所はポートランドではなく隣の市であるビーバートンでした。
でも距離的にはそう遠くなく、しかも日本のスーパーマーケットがビーバートンにはありました。
常緑樹に包まれた山々は冬でも青々とした緑で、町にある芝生もまた緑で冬枯れをした街という
雰囲気はまったくなくて、私はとても気に入りました。
冬に来たわけですが、そういう雰囲気は無く、私はとても気に入り、できたらずうっとここに住みたいと思いました。
カナダに対する思いはほとんど消え、何とかここにずうっと住めるようになりたいと思ったものです。

私は2か月ほどして日本に帰り、あの3.11の震災を経験しました。ただ私の住んでいた地域はほとんど何の打撃も受けずに済みました。

そしてその年の6月の半ば私はまたビーバートンに戻りました。
夏のビーバートンは冬にもましてさらに心地よいところでした。
私のポートランド近辺に対する愛情はどんどん増していき、カナダに対する思いは薄れていきました。
快適な夏を過ごして、幸せな日々でした。
それに反して、私の友人はだんだんこの地に対して不快感を増していったようでした。
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* このエッセイのシリーズは一人の日本人が海外移住と言う夢を見て、海外移住申請をしてみたらどうなったかという経験・体験を、申請の結果が出るまでをつづったものです。海外移住申請の手続きは常時変わるので、移住申請のアドバイスと言う意図はありません。体験談として楽しめたらと思います。

2010年12月31日、早朝私たちは最後の部屋に残るものを片付け、午前7時半になるのをがらんとしたアパートの中にいました。1つのイスもなく床に座り込んでアパートの持ち主が現れるのを待っていました。薄暗かった外は次第に明るさを増してきていました。
アパートの持ち主は時間通りに現れ、部屋を詳細に確認しなが見て回りました。彼はあることに気づくとそれを指摘しました。それはこちらもわかっていたことでその証拠となる写真をデジカメに撮ってあったので、しっかりと説明し、持ち主の問題だと説明できました。こうしてアパートの引き渡しが終わり、私たちは空港へと向かうタクシーが来るのをアパートの敷地の外で待っていました。やがてタクシーが現れ、私たちはその車に乗り込み出発しました。

しかし何とタクシーが走りだして5分もすると止まりました。
「すみません、車の調子が悪くて、、、。すぐ他のタクシーを呼びますのでそちらに移ってください。」
ええっ!何か私たちのポートランドでの行方を暗示するような嫌な予感。飛行機に間に合うだろうかと心配していましたが、思ったより早く代わりのタクシーが来て、私たちはそのタクシーに乗り変えました。やっと落ち着いて、窓の外を流れるニューオーリンズの街の景色をもう、2度と見ることはおそらくないのだろうと思いながら見つめていました。
頭の中には一つの歌の詩が流れていました。

ずっと 楽しかったね、 まわりの全ての事が
やさしく僕等を包んでいるようにみえた
語り合って 語りつくして あてもなく 探してた
その道は 果てしなく どこまでも どこまでも

悲しみは やがて 消えることを知った
喜びはいつまでも 輝き続けることも

戦い続けたわけじゃない 流されてきたとも思わない
追いかけた夢のいくつかは 今この手の中にある
晴れ渡った こんな日は いつでも思い出す
飛ぶように かけ抜けた 遠い日の僕らのことを

こころは今もあの時のまま
思い出に そして君に
だから さよならは言わない 
決してさよならは言わない

ずっと ずっと楽しかったね
晴れ渡った こんな日は いつでも思い出す
飛ぶように かけ抜けた 遠い日の僕らのことを

たとえこのまま 会えないとしても
思い出に そして君に
きっとさよならは言わない
決してさよならは言わない

(詩 小田和正 「さよならは云わない」)

12月31日とは言え、湿度の高い蒸した暖かな曇り空の日でした。
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