カテゴリ:・新米せんせー奮闘記( 3 )

私が勤めることになったのは「モンシェリー」と言う名前の教室でした。英語教室なのにMon Cheriなどというフランス語の名前かよ~と、不思議に思いましたがなんの事はない「モンシェリー」と言う商店街の中にある教室だからついた名前でした。

前年に二人の講師がおやめになり、その年から私を含む3人の講師が新しく勤めることになりました。と言ってもあとの二人はアルバイトで週に2、3クラスを受け持つだけで、専任として勤める新人は私一人でした。一人は男の人でできれば専任になりたいと思っている人でした。もう一人は英文科の大学生でした。この教室には二人の先輩講師がいました。二人とも若い女性でその一人は算数も教えていました。

私は小学4年から中学2年の全9クラス、週12時間(中学生は週2回)を受け持つことになりました。クラスの配分を上手く行って週休2日になるようにしました。しかし私はこの休みの日には西武のコミュニティーカレッジで英語のコースを受講して勉学に切磋琢磨する真面目な先生でした。

この9クラスを受け持つと言うのは大変でした。生徒の名前を覚えることからして一仕事でした。120人近い名前と顔を覚えなければなりません。子供の顔は皆同じように見えてなかなか大変でした。

とにかくこう言った状況で私の新米せんせーの生活が始まりました。
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恐怖の研修会

講師として採用が決まると、応聞社の英語教室の本部へ行って2泊3日の研修が待っていました。これはその年から新らしく英語講師として勤める人が、全国から集まって本部のプログラムに従って教育方法や生徒指導のやり方そして英語について短期集中で研修するというものです。その年すでに何回か行われていて、私はほとんど最後に開催された研修に参加しました。

記憶が薄れてきているので間違っているかもしれませんが、私の記憶を頼りに書いてみようと思います。もし読者で応聞社の英語講師をやった人で、正しく記憶している人がいたらぜひお知らせください。

研修の行われる本部というのは偶然にも英語学校のあった目白でした。
へえ~、こんな近くにあったんだと思いながら、私は気楽な気分で研修に参加しました。
ところがどっこい、その研修とは研修者にとって身も縮むような恐ろしいものだったのです。研修の途中で逃げ出して、講師になるのを辞めた人もいるというほどそれはそれはこわ~い研修だったのです。

最初の日、本部に着くと簡単なオリエンテーションをしてから、宿泊する部屋に分かれ荷物を置きました。子供向けのの英語講師ということで参加者は女性が大半で男の講師というものは4、5名ほどだけだったように記憶しています。

研修のスケジュールは相当きついもので、朝から晩までびっしりと講義が続くものでした。第1日目はさっそく午後から始まりました。
まずはこの英語教室のほかの英語塾とは違うというとことか、教育方針の説明などから始まりました。このあたりはまだ研修内容は気楽なもので、ふう~んと言った感じで話しを聞いているだけでした。

そして次にこの英語教室のプログラムの監修をおやりになったという某大学英文学科の教授の英語についての講義が始まったのでした。
この教授の講義がとてもとても恐ろしいものだったのでした。この教授は「私は英語の権威で偉大な教授である。私に逆らうものは容赦はしない」という威圧的な態度で、受講者を脅かしながら進めるというスタイルで今ならハルスメントで訴えてやりたいようなものでした。
リラックスして聞ける講義ではなく、ものすごい緊張がクラス全体にいきわたり咳一つすることさえはばかれるような雰囲気でした。そして鋭い質問が発せられ、答えられないと(緊張で答えられない人が多い)厳しい叱咤の言葉が飛び、我々を萎縮させました。
 
「こんなことが答えられないバカで英語講師になるつもりか」
位の事は平気で言われたような気がします。とにかく人を見下した態度で講義をしました。こういう教師には絶対になりたくないと思いました。

中にはちょっと逆らうようなことを言った人がいましたが、そうすると教授の怒りは増長され怒涛がクラス内に響き渡りもう我々は怖くて何もいえなくなりました。今ならもうちょっと言い返せそうな気がしますが、その時はとてもそんな雰囲気はなく、小さくなるばかりでした。講義中にいつ質問が自分に対して投げかけられるかと緊張の連続でした。塾の先生になるのにこんないやな思いをさせられとは思いませんでした。その教授のいないところでは講師同士で悪口を言い合いましたが、講義の時には教授のご機嫌を取ろうとへいこらする講師もいました。
私も少しはどんないやな人にもどこかに優しい良い面があるだろうと観察してましたが、奴にはなかったです。
憎たらしいのはこの講義のテキストとして彼の書いた本を買わされたことでした。定価2000円なり。27年前の2000円の本は高い!こうやってこの英語教室と手を組んで自分の大学以外でも自分の本を売り金儲けをしやがってと教授に対する憎しみはますばかりでした。このクラスの後ではもう精神的にへとへとでした。いやらしいことに次の日の講義のために宿題まで出してきました。そしてテストまで出されたと思います。私たちの研修のときにも数名あまりのこの教授の厳しさに姿をくらました講師がいました。出来れば私も逃げたかった~。
研修会のこの講義にでた人でないと、この教授の講義の恐ろしさは分からないもでしょう。
まったく応聞社も何でこんな奴に顧問をさせるんだと思いました。
研修会はこの教授のいやな思い出しか強く記憶に残ってません。思い出すと20数年たった今でも胸が煮え繰り返るくらいです。

とにかくいや~な思いをして、こんな講師のライセンスのようなものをもらいました。
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はじめに

これは私が小中学生向けの英語講師をやリ始めたころの事を書いたものです。
詳細な事情を書いていくとやたら長くなりますし、長々書くのも面倒なのですが、そこに至るいきさつは、まあ簡単述べておきましょう。

大学卒業後、1年半ほどしてやっぱり英語が好きで英語関係の仕事がしたいと思う気持ちが高まり、ある事をきっかけに仕事をやめて英語の専門学校に入ることを決心しました。そして1978年の秋、今は無くなってしまった目白にあるロゴス英語学校というところに入学しました。そして英検の準2級も取り無事に1980年の3月に同校を卒業しました。

懐かしい卒業写真。私はどの人でしょう?
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さて卒業前にして就職先を探していましたが、なかなか見つからずあせりました。学校にもいくつか求人の張り紙がありましたが、大した物はなく就職情報誌なども頼りにしていました。英語関係という漠然とした希望だと正直自分でもなにがやりたいのか分からず、就職先もはっきりした目標もなく困ってました。そんな時ふと英語講師募集の広告が目に入りました。特に英語講師になりたいと思ってはいませんでしたし、それほど英語の知識があるとも思っていませんでしたが対象が小、中学生というのでそれなら出来るだろうと簡単に考えて応募しようかと思いました。
そこは「♪ABCは知ってても、それだけじゃ困ります~♪」というCMソングで当時割と名の知れた旺文社LL英語教室のフランチャイズの教室でした。教室の場所が埼玉の上尾市でその当時住んでいた志木市ともそう遠くはないというのが気に入りました。早速応募すると、面接をしたいという返事があり、相手も新学期はまじかで講師が決まらず困っていたようで、即採用が決まってしまいました。給料が少し安めだったのでオーナーから寮があるのでそこにはいればアパート代、光熱費が無料になると言われました。寮生活というのがちょっと引っかかりましたがアパート代がかからないということに魅力を感じ、寮生活することにしました。ただ寮と言っても、英語教室の寮ではなく、英語教室が入っているショッピングモールの寮でした。
こうして私の英語講師としての生活がとんとん拍子で決まってしまいました。
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