カテゴリ:・回顧( 11 )

3月に入るとやっと外泊が認められました。
土曜の昼過ぎから日曜の午後まで家に帰れるのです。
12月に入院して以来3ヶ月ぶりです。
実家に戻りなんとしてもやりたかったのは入浴です。
この3ヶ月風呂に入っていないのです。頭も3ヶ月洗っていませんでした。
3ヶ月ぶりに風呂に入るとさすが風呂の水が黒くなりました。
実家に帰っても寝てることになれ、やはり横になっていることが多くて生活は
病院と変りませんでした。
そんな外泊を2.3回繰り返して、やっと医者から退院を認められました。
怪我をしたわけでないので自分ではどのくらい治っているのか病状に自覚が無いということが大変なことでした。

しかし、とにかくやっとの事で3ヶ月以上居た病院とお別れできることになりました。若いときには長い時間でした。あとから思えばさまざまな経験をすることが出来ました。他の病人と異なり、身体的には痛いとか苦しいとかが無く比較的に入院生活は楽なほうでした。

この入院と言う経験がある意味「人生には何が起こるか分からない。やりたい事はやれる時にやっておいた方がいい」と思うきっかけになり、年齢的にも30歳前、人生の節目にいたので思い切って夢であった留学を実行してみようと言う気になれたのです。
多分この入院生活と言うものをこの年齢で経験しなければ、今の私は無いような気がします。
旅行者としてではなく、海外に飛び出していく私の人生の新たな始まりの原点は実はこの3ヶ月の入院生活にあったのでした。この入院生活が現在の私へと導いていく出発点でした。

ちょっとかっこつけた閉めですね・・・・。

(おわり)
[PR]
d0000995_2116584.jpg
友人が2月の末に結婚すると言うのでどうしてもこれには出たいと思ってました。まあ何とか退院とまでは行かなくてももうちょっとましな状態になっているだろうと思っていました。しかし、私の状態は遅々として改善には進みませんでした。同室者Kは退院したのに何故私は出来ないのか納得がいきませんでした。やはりあの若い担当医のせいだ!とあまりにも慎重な対応をする担当医を恨んだものでした。
そしてだんだん結婚式当日は近づいて来ました。その頃の私は1日に2.30分ベッドから降りて歩き回ってもいい、病院の同じ階の廊下を歩いてもいいと言うところまでになっていました。しかし長くベッドに居たせいか立ち続けると疲れてしまい、結局横になってねていた方が楽なので、
ベッドの上に居るほうが多かった。

ついに後1週間と結婚式が迫った時どうしても結婚式に出たい私は医者に「結婚式に行かせて欲しい」と懇願しました。当然の事ながら医者は反対しました。まだ式に出ていられるような身体ではないと却下されました。
それで諦めるような私ではなく、しつこく何度も懇願しそれならば悪化しても責任は持ちませんよと根負けして許可を頂きました。

結婚式当日は寒く、みぞれまじりの雨が降るような真冬の日。暖房の効いている暖かな部屋に気楽に過ごしていた私には非常に堪える寒さでした。
父親に車で会場まで連れて行ってもらいました。
会場に入り、指定された座席に腰を下ろしました。そして厳かに結婚式が始まりました。最初の2、30分が過ぎた頃から私は座っているだけでも非常に疲れることに気が付きました。式が進むに連れ、目が回るような感覚になりましたが、会場に居る人にはそんな自分を気付かれまいと必死に平静を気取ってましたが、気分が悪くなってきました。ああ、やっぱり医者の言うことを聞いていればよかったのかなと少し後悔しました。
それでもなんとか式の最後まで何気ない振りをとおしました。
式が終わるやすぐ様父に迎えに来てもらい、さっさと病院に帰りました。
とにかく身体的にはきつい結婚式でしたが出れて良かったと思いました。
[PR]
d0000995_20451051.jpg

ちょっと話はさかのぼってしまいますが、1月頃から面会謝絶となっていた私とKの病室は
やっと面会がOKとなりました。とは言うものの、Kの友人たちは看護婦の目を盗んでKに会いに来たりしていました。そして、禁じられているタバコなど密輸入(笑)。

私も一応親戚などには秘密にしておくはずでしたが、父が偶然、病院の駐車場で親類の人に会ってしまい、嘘をつけない父はばらしてしまいました。田舎は噂の広まるのは、驚くほど早いものであっという間に私の入院は親戚、縁者、友人たちに広まってしまいました。
面会が解禁となるや、次々と訪れる面会人に辟易しました。友人なら気が楽ですが、あまりお付き合いの無い親戚の人などが面会に来ると何を話していいやら話題にも困ります。一通り病状を話すと、後は話すことも無く重苦しい沈黙が・・・。両親のどちらかが居ればいいのですがいつも居るわけではなく面会人に会うのも大変です。義理で来てくれる人に対応するのが一番辛いです。実家の近所をおばさん連中が父や母の義理から見舞いに来たりして私にとってはありがた迷惑な感じでした。来ればきたで、後でお返しもしなくてはならず面倒でたまりませんでした。

1月の半ばに友人が3、4人一緒にやってきました。ひとり、ひとりばらけて来るよりまとまってきてくれたほうがいいですね。その頃3、4年私は埼玉のほうに住んでいたので友人に会うのも久しぶりでした。こう言った面会は嬉しいものでした。近況や世間話のあとに友人の一人Yがもぞもぞとして言いました。
「実は今度結婚することになった。来月の末に結婚式を挙げることになった」
と、爆弾宣言をしたのです。
来月の末ならいくらなんでも病状も改善して結婚式には何とか出られるだろうと私も確信を持って「必ず、結婚式には出る」と宣言しました。
とても仲のいい友人で結婚式にはどうしても出たいと思いました。
[PR]
Kは退院の日少ない荷物をまとめると意気揚揚と病室を出て行きました。
取り残された私は空っぽになったベッドを見つめいつになったら私はでられるのだろうと
ため息をつきました。

看護婦たちはKが去るとベッドのかたずけやなにやらで忙しく立ち回っていました。
しばらくはこの部屋は私ひとりになるのだろうかと思っていた私でしたが、午後には新しい患者が私の同室者として入ってきました。
二人目は私より若く、真面目そうでした。私よりも生真面目に医者の言うことをよく聞いて医者にとっては良い患者のようでした。話しをすると割と気が会うような人でした。彼もまた肝炎でした。同じ病院に3人もの肝炎の患者が居たなんて、これは良くある病気なのかと思いましたね。

d0000995_21333747.jpg今度の人は年下とあって私は少し先輩風を吹かし、TVの無料視聴などKから伝授されたことなどを教えたものでした。
今度の同室者Nはある意味ものすごく運がいい人でした。彼は保険のセールスマンに保険加入をしつこく勧められ、根負けして仕方なく入って、第1回の保険料を払うやいなや肝炎で入院でした。たった1回の保険料を払っただけで総ての入院代、個室代、薬代など総ての医療費が保険会社が支払うことになり全くお得な保険の加入となったそうです。
[PR]
d0000995_1011352.jpg

この画像はイメージです。

入院してから1ト月半が経とうとしていました。
医者がやってきて、言いました。
「大分良くなったようなので、もう自宅療養してもいいでしょう。今週末には退院です。」
やったー!!やっと家に帰れる。
「自宅に帰ってもしばらくは重労働などせず、少しのんびりした生活をしなければいけませんよ。」
「は~い。」
嬉しくってたまりません。やっとこんな病院生活から自由になれる。こぼれ落ちる満面の笑顔。
・・・・・・・・・・・。
そんな姿を恨めしく見つめるのは同室の人。




・・・って同室の者って私だよ~~~!

医者の言うことを守って真面目な入院生活をしていた私が退院できずに、医者の命令は無視、自由気ままな入院生活をしていたKが! Kのほうが早々と退院だなんて。人生の不条理を病院生活でも身にしみて感じさせられました。
[PR]
Kは大部屋に居た時にその病院の「主」といわれるくらい長い病院生活をおくっている人と親しくなっていました。彼から色々な病院の情報等も仕入れていました。下世話なところで「あの看護婦はやさしい」「この看護婦はだめだ」とかそんなことを知ってました。直接わたしに役に立った情報といえば、有料TVをただで見る方法と言うものでした。2人部屋にはコインで2時間ほど映るTVが備え付けてあったのですが、細い棒のようなものでコイン投入口から操作してTVをつける方法を教えてくれました。全然コインが入ってないと疑われるので、5回に1回くらいはお金も使いましたが、我々はかなりの時間ただでTVを見ていました。

わたしは12月に入院をしたのですが、医者の言うとおりしていれば、2週間ぐらいでよくなると思っていました。クリスマスには家に帰れるだろうと信じていました。ところが全く血液の中のウィルスの数が減って行きませんでした。
正月前には大丈夫だろうと思いましたが、あっという間に正月がすぎました。クリスマスには
食事にケーキが出て、正月には小さなもちが出てそれが年末年始をささやかに感じさせました。
d0000995_11563275.jpg

典型的な病院の食事

入院生活ひと月を過ぎる頃になるとそろそろ家に帰ることに諦めも出てきて、ただ寝ているだけの怠惰な生活に慣れてきます。初めの頃は一週間も頭を洗わないのは耐えられないと思っていましたがひと月も洗わないと、別に頭を洗わなくても死ぬわけでもないしどうでもいいやという気持ちにもなりました。

相変わらず私の担当の医師は注射だけでたいした検査も治療もせず、ほったらかし状態。それに比べKの医師はKをモルモットのようにあれやこれや検査を行いました。さらに大学病院にまでKを送り込んでなにやら検査をしました。さすがに私もああ検査続きの入院生活はしたくないと思いました。案外私の医者のほうがよかったかなと密かに思いました。

さて1月の半ばになり、やっと医師からベッドから起き上がり、ベッドを降りて病室内の歩行を許されることになりました。ああ、やっと動き回れると喜んでベッドを降り、久しぶりに2本の足で立ちました。するとどうでしょう、目が回るようでまともにたっていられませんでした。長いベッドでの生活に体がなれて、立っていることもまともに出来ない体になっていました。少したっているだけで非常に疲れてしまい、寝ているほうが楽で立って歩くように言われても寝ているほうが多かったように思います。
[PR]
Kは35、6歳で離婚していて一人暮らしをしている人でした。口八丁手八丁の世渡りは上手い人と言う印象でした。それゆえに落ち着きが無いところがあり、安静にしていなければいけないというこの病気は耐えがたいようでした。その性格から医者の言うことは守れないようでした。大部屋にいた時もそうっだったようですが、安静にしていられないのです。医者、看護婦がいなくなるや、ベッドから起き上がり、「大部屋の人にちょっと挨拶してくる」、「ちょっとタバコを吸ってくる」(タバコは禁止されてましたが上手く誰かから仕入れてた)とか言って部屋をぬけだしたり、「トイレへ行ってくる」とちょこちょこ動き回ります。医者の言うとおりにしている私から見ると自由気ままでした。医者の言う通りにしたほうが治りが早いだろうにと思いました。
しかし彼の悪行は看護婦の間に知れわたり、だんだん自由に出来なくなりました。

Kとは寄寓にも同じ日に入院、同じ病名でしたが担当する医師が異なりました。Kのほうの医師はきさくで親しみやすい感じ。それに反して私の担当は生真面目融通がきかない、冗談も通じないような感じでした。Kのほうの医師が担当だったらいいなととなりの芝生をうらやみました。
全く同じ病気でしたが担当の医師が違うので治療方法が異なっていました。まるで2人の医師がどちらの方法が効き目があるか比べてみようと競争しているのではないかと思えるようでした。

d0000995_13301049.jpgKは毎日点滴を1、2本打たれました。点滴中は身動きがあまり出来ず辛そうでした。私は注射を一本毎日打たれるだけでした。とはいうものの毎日注射を打たれると言うのは恐ろしいことです。朝起きるやいやな、まず一本私の腕に注射針が差し込まれると思うと朝が怖い~~。しかし注射針が差し込まれるのはこれだけではありませんでした。毎日採血のためまたまた私の腕に注射針が!運の良いときは一発で決まりますが、採血の上手くない看護婦がいて一日に一度の採血なのに、「あ、ごめんなさい。また失敗しちゃった。」とか言われて最高4回もあちこち刺されました。もう私の腕は穴だらけ。採血の時は下手な看護婦が来ると「また穴だらけにされる~」と恐しくなりました。
とにかく、治療のためには1本の注射だけで、点滴を打たれて数時間拘束されるKに比べれば私のほうがまだましだなと思いました。
[PR]
私の罹ったというか、発病した急性肝炎B型というのは多くは母子感染によるものが多いといわれる。幼児の頃感染しウィルスを持ってしまったキャリアーだったと言うことである。案外日本人と言うかアジア人にはキャリアーが多いと聞いたことがある。キャリアーなのでいつ何かをきっかけに発病するかもしれないのである。また、一生発病しないでいる人もいると言える。
私もこのキャリアーだったと言われました。発病の頃はウィルスの数が多くなり、つばとか体液、血液、排泄物をとおして感染する可能性があるらしい。それで一応他の患者から隔離されることになる。

私も医者に肝炎を宣告され、感染の危険があるようなことをいわれ、大部屋で非常に居心地が悪かったのですが、医者の無神経な言動があった翌日午後に幸い二人部屋が空き、そちらに移される事になりました。
常に身体を横たえていなければいけないという病気なので、自分で起きて歩いていけるくらいなのですが、大部屋のベッドから移動用のベッドへとそれから二人部屋のベッドへの移動は看護婦4、5人がかりでシーツごと持ち上げて移し変えられました。

6人もの大部屋から2人部屋は気が楽で状況がかなり改善されたと思いました。
さて、これからこの部屋で一緒に過ごす相手はどんな人かと少し不安もありました。とってもいやな鼻持ちなら無い奴なら、耐えがたい入院生活になってしまいます。

同室になった男はKといい、私より4つくらい年上でした。なんと私と全く同じ日に、同じ病気で入院していたと言うことでした。私の心配は杞憂でKは人当たりがよく、話が面白くなかなか楽しい人でした。さてこれからひと月くらい私とKの同室生活が始まるのでした。

つづく
[PR]
入院生活と言うのは初めての経験で、6人の見も知らぬ他人と寝食をともにしなければいけないというは非常にいやでしたが、仕方ありませんでした。
入院してまず、医者から言いつけられたことはなるべく仰向けに寝ていなければいけないと言うことと、食事の時以外は常に寝ていなければいけないということでした。特に何処が痛いということも無いのに寝ていろと言われるのは辛いことです。それも同じような姿勢でいなければいけないというのは。
私は真面目で早く治りたいと思っていたので、医者の言うことは忠実の守ろうとしました。しかし四六時中仰向けに寝ているのは不可能です。融通の利かない私はそれでもなるべく指示をまもるようにしていました。しかし、2日目からは背中と腰がずっと寝ているせいでたまらなく痛くなりました。もうこれ以上寝ていられないというくらい辛い痛みでした。食事の時だけ上半身を起こせるので、その時が唯一の救いでした。
食事と言えば入院一日目からおかゆが出て、「ああ、病人になったんだなあ。」と否が応でも実感が湧いてきました。
おかずはたんぱく質のものと言うので豆腐とか豆類、魚などが良く出てきました。

さて入院生活で非常に困ったことがありました。
それは何を隠そうトイレについてです。
別に体が不自由ではないのでトイレくらいは自分でいけます。私は行けるものだと思っていました。ところが行かせてもらえないのです。トイレもベッドの上でしなさいと命令が出ていました。
「ええ~っ、ベッドの上で?!」
潔癖症の私はこれには仰天しました。
大部屋なのでカーテンの仕切りがあると言うものも、隣の人がすぐ近くにいる状態でトイレを使うのはわたしの性格からして絶対に無理。それでもこちらの意向に関係なく容赦なくもよおすものはもよおしてきます。我慢の限界まで辛抱してついに仕方なく、ベッドの上で用を足そうとしましたが、わたしの理性がブレーキをかけます。もようおしているのに、でないのです。ベッドはトイレではないと言う理性が打ち勝っていたのです。苦しくて死にそうでしたが、用が足せません。こうして4、5日過ぎました。そして主治医にトイレの時は簡易トイレを使わせてもらい、ベッドの横で用を足せるように懇願し、仕方がないと納得させました。そして、5日目くらいにやっとみんなが寝静まった夜中にそっと用が足せ、一息つけました。

私が入院したと言うことを大げさにしたくなかったので、親類とか近所に人には秘密にしていて、私には見舞いに来る人はいませんでした。そのほうが気が楽でした。
大部屋のほかの人には昼間ひっきりなしに見舞い客などがよく来ていました。その見舞い客についてひとつ変だなと言う事に気付きました。
それは見舞いに来た人が帰っていくときに患者さんにかける言葉でした。
「それではどうぞお大事に」
と言うのが普通の日本語だと思っていましたが、この病院に来る人総てが帰るときには口をそろえていうのです。
「お大事なさい」 と。
大事にしてくださいと言うのなら良いけど大事にしろと命令形で言うような表現です。
これは日本語として絶対におかしい。それとも私がおかしいのか。とにかく非常に耳障りな表現でした。かなりあとになって、これはこの地域の方言かと思っていたのですが、群馬ではなぜがこういう表現をすると知りました。

閑話休題。
入院して1週間も経った頃でした。入院の際に行った色々な検査の結果が出てきました。私は丁度夕食を食べ終わった頃でした。私の主治医が検査結果の報告に来ました。
医者は私がB型肝炎であると告げました。それに続く説明を小さな声で私に言ってくれるならいいのですが、その若い医師は大きな声で部屋中に聞こえるような声で言いました。
「この肝炎は感染します。だから食べた後の食器なども、これからは使い捨てになります。この食器はもう使えませんね。」そういったかと思うとプラスチックのご飯茶碗と皿などをバンバンとそばにあったごみ箱に力強く投げ捨てました。部屋中の人がこっちを見ました。「とにかくあなたの病気は感染するから、面会謝絶にします。」部屋中の人が「感染」と言う言葉を聞いてひいていくのがわかりました。
私はこの若い医師の無神経さに腹立たしくなりました。
私は大部屋に非常に居心地の悪い状況になってしまいました。

つづく
[PR]
その鏡に映し出された美青年の顔に惚れ惚れしました・・・・・・なんて冗談を言っている事態ではありません。

鏡に映る自分の顔の目を見て「ぎゃーっ、宇宙人!」と思わず叫びそうになりました。なんと私の目の白目の部分がまっ黄色に変化していたのです。まるでSF映画に出てくる宇宙人とかホラー映画に出てくる怪人のような目でした。これは異常だ。絶対に異常だ。
医者嫌いな私もさすがにこれはどうしても医者に行くべきだと決心せざるを得ませんでした。

d0000995_17194244.jpg意を決して街の小さな病院に行来ました。その病院はあまり盛ってはいない感じでした。
引退してもよさそうな老医師は私を診察すると

「あなたは肝炎ですな。まあ、肝炎は贅沢病といわれるくらいだから、たっぷりの静養と高たんぱくの食事をしていれば1ト月くらいすればなおるだろう。まあ、アサリをたくさん食べるんじゃな。」

と簡単に言うのです。
「な~んだ、そうか。そんなに心配することでもないのか。」と私は胸をなでおろしました。

しかし静養と言うと仕事を休み、なるべく何もしないようにしていなければなりません。
当時埼玉の寮に住んでrいたのでひと月実家に戻り、実家で静養しようと思いました。

実家に戻り、状況を説明しました。突然戻ってきた息子に驚いたようでした。病気だと知って2度ビックリ。もっと詳しく医者に診てもらった方がいいと、隣の市にある厚生病院に行くことにしました。
厚生病院は人で溢れ返り、長い時間待たされました。、やっとの事自分の番がやってきました。
朝来たのにすでに昼近くになっていました。私は病名がわかっているので、「では薬を処方しますから、家で安静にしていてください。高タンパクの食事をとっていてください。ひと月もすれば自然治癒するでしょう」といわれるものと思っていました。
ところが若い医者は
「確かに肝炎ですね。ではあなたは即入院してください。」
「ええ~!」

入院だなんて、心の準備も何もしていませんでした。家に帰ってパジャマとか持ってきますということも言えず有無を言わさずの強制入院でした。
入院するほどの病気だったのか。町の老医師の言い方ではただ寝て食っていれば直るような印象の言葉だったので、この展開に驚いてしまいました。

入院と決まると私は車椅子に座らされ、あちこちと検査のために色々な部屋に連れまわされました。何がなんだかわからず、初めての入院という経験をさせられる羽目になりました。
すべての検査が終わるとわたしは寝台車に乗せられ数時間放置されました。病室の準備ができるまでということでした。不安なまま数時間が経過して、やっとの事私の病室が決まりました。
病室は6人の大部屋でした。3つのベットが部屋の両脇に並んでいました。幸い私は3つのうちの入り口の近くの端のベッドでした。ほとんどが老人の大部屋で私の入院生活がはじまるのでした。

つづく
[PR]